倉沢良弦『ニュースの裏側』

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YouTubeの終わりの始まり

数多くのインフルエンサー、クリエーターを抱えるYouTubeが岐路に立たされている。
昨年10月の規約変更は、多くのインフルエンサーやクリエーターを戸惑わせるのに十分な内容だった。
その中でも、所謂、炎上系と言われるYouTuberは、例えば有名人への批判動画や高度に政治的な発言を控えなければならなくなったのだが、その大きな要因が広告引き剥がしというものだ。
これは、差別的、侮蔑的発言はもとより、政治的に偏った発言等をYouTubeは容認しないというものであり、また多くの動画内容の中で子供向けコンテンツではないと判断された場合、動画の存在自体が削除対象になったりということが起き始めたのだ。
YouTubeの本質は誰もがクリエーターとして自由な発想で、これまでに無かったような映像や表現者としての活動が出来る場を提供するものであり、無名の人々が、オールドメディアはもとより既存のプラットフォームで固定化された、一方通行の情報ではない表現を行う所として、その価値を提供してきた。
既存の映像クリエーターのみならず、それまで情報の受けてであったオーディエンスが、自ら面白い、楽しい、興味を引くコンテンツの発信が出来るばとして羽ばたける場所を与えられたと受け止めたし、実際に好きなこと、興味をそそられることを映像化して提供することに躊躇することが無くなった。
元々、YouTubeが今日的な巨大な映像プラットフォームとして成長することは、想像すら出来なかったし、最初期のYouTube動画は一部のマニアックな人々や所謂、素人のレベルの作品群として見られていて、一般大衆が関心を持つことは少なかった。
それはプロのクリエーターですらYouTubeを表現媒体としては見ておらず、寧ろその影響力は小さいと考えていたようだ。
YouTubeが発足当初から、万単位の動画をアップロードしてきた実績はあるものの、それが映像クリエーターに与える影響は懐疑的とされていた。その影響力を疑問視する声が多かったのだ。一つには、YouTubeがそもそも異性間で情報共有する出会い系サイトのようなものだった為で、初期の動画は現在でもネット上に数多くあるエロ動画サイトと同じような物だったからだ。
ところが、2006年のGoogleによる買収によって、YouTubeはこれまでに無かった映像コンテンツを発信するインフルエンサーのためのプラットフォームとして大きな変貌を遂げることになる。Googleはあらゆる情報を網羅することを目的に検索サイトとして発展してきたが、その根底には、人はインターネットを使って知りたいことを知ろうとするという根源的な情報プラットフォームとしての使命を果たそうとする意思があり、人が何かを検索する時に、その最初の画面に表示される広告スペースを販売するという手段を思いついたことで、急激にインターネット上におけるGoogleの必要性を高めていった。
人は、探し求めている情報を何ページにもわたってめくる必要がなく、Googleによって、いとも容易く知りたい情報にたどり着くことが出来る。AOLやYahooでもそれは可能だが、Googleは徹底的にその無駄を省き、関連広告を一番最初に表示するという実にシンプルで分かり易いやり方で、オーディエンスのストレスを解消したことが成功の要因だった。
YouTubeを買収したGoogleは、無数のクリエーターが提供する映像コンテンツの間に広告を貼り付けることで、広告収入を得ると共に、インフルエンサーやクリエーターに広告収入を与えることで、より広範な映像コンテンツを集めることに成功した。
Microsoftがやってきたことは、書籍の出版に近く、一度作ったOSやソフトを原価が安価なCD等の媒体にただ複写することで、収益を上げてきた。GoogleYouTubeを買収して行おうとしたことは、クリエーターに映像コンテンツを作らせ、広告収入という形で再生回数を稼ぐことで収益化を図るという極めてシンプルだが誰もが参入できる市場を提供したことによって、急激に拡大させることに成功した。

そのGoogleの狙いとは裏腹に、起きてきた問題の大半は、アマチュアが収益性のみを追求した結果による、社会通念としての差別や偏見、過度な映像表現による不快な映像が蔓延したことによる。
それは人種差別や政治的な偏向性であり、有名無名を問わず、双方向性を持たない一方的な情報発信であった。
オーディエンスが求める娯楽性は、時に過激な表現を求める。広告収入という蜜の味を覚えたクリエーターは、より過激で再生回数が稼げる動画に傾注していくのは、市場原理とも言える。特に、映像が与える社会的な影響に頓着しないアマチュアは、その傾向が強い。
今、多くのプロ集団がYouTubeに参画している。つまり、映像コンテンツによる収益性の高さにプロが着目した結果、それまでアマチュアと言われる人々が作成したものとは雲泥の差がある映像コンテンツが増加してきた。コンプライアンスと映像技術の高さ、提供する情報量の多さにおいて、プロフェッショナルには敵わない。同時にそれは、アマチュアを排除するという映像プラットフォームの画一化を意味する。

今、YouTubeは大きな転換点を迎えている。
多くの情報媒体がそうであるように、YouTubeもより専門性が高く、プロフェッショナル性の高い映像コンテンツへと変貌している。
地上波テレビのコンテンツが画一化され、面白みに欠けることで人々がインターネット媒体に走ったように、今まで以上の表現が許されなくなったYouTubeは地上波テレビと同じ道を歩もうとしている。
裏を返せば、より洗練されたプロが参入しやすくなったとも言える。
今はYouTubeが提供してきた映像コンテンツのプラットフォームが終わりを告げると同時に、新たな時代の始まりの時であるとも言えないだろうか。