倉沢良弦『ニュースの裏側』

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日本企業はChinaから撤退するべきか?

2019-nCoV(新型コロナウィルス)が猛威を奮い、2月2日時点でChina国内では14,000人以上が発症し300人以上が亡くなった。China以外で、発症者数が最も多いのが日本で20名が発症した。日本の場合、湖北省から来日するChina国民の入国を制限することになったが、当然ながら11月に武漢市で最初の発症が確認されて以後、China国内の人の移動によって、ほぼ全省に感染者が拡大したことを考え合わせると、春節以前に来日したChina国民が感染者ではなかったとは考えにくい。
何度かTwitter上でも指摘したが、China国内は大都市部であったとしても、衛生環境は劣悪でありこういった感染症が一気に拡大する要因が数多くある。まことしやかに食品工場の防疫体制の不備等が、動画等でも拡散されていて、仮にその内容通りなら、さもありなんというところだ。
筆者は本業の関係で食品工場に出入りすることも数多いが、地方の食品工場でも規模の大小に関わらず、日本の食に関わる衛生管理体制は世界トップクラスであることは間違いない。その日本ですら、異物混入等の騒ぎが起きれば、マスコミが騒ぎ回収騒動が起き、時にはそれが原因で企業倒産にまで追い込まれる。いわんや、食品工場の実情が伝わりにくい、或いは消費者も衛生管理に寛容であることから、メディアも消費者も日本ほど神経質とは言い難い。これは、食品だけに限ったことではない。
既に、China国内ではマスクの不足につけ込んで、捨てられたマスクを再生して高額で売りつける商売を行っている者も出始めた。
また、China国内ですら武漢市民への風評被害で差別的な行動も出始めている。武漢市とその周辺は既に封鎖状態であるが、近隣の市町村では武漢市民の流入を武力で排除しているとも言われ、自警団を結成しているとも言う。

China国内に進出した企業の多くは、日本のノウハウに基づいて生産体制を整えていると考えているが、今回のように企業側が最新の注意を払っているにも関わらず、生産を手控えなければいけないケースはChinaに進出するリスクと言っていいだろう。既にChina国内に生産拠点を持つメリットは失せつつあるのは、数年前から叫ばれ続けている。Chinaに工場を持つ最大の理由は人件費であった筈だが、急激な人件費高騰は最早、China国内に工場を置く意味はリスクを生み出すこにさえなりつつある。Chinaに進出した企業は先行投資を行い収益の拡大を目指してきたであろうが、2000年代に入り、相次いでChinaから感染症が発生する度に、Chinaが抱える経済活動とは違うリスクに対して警戒感が広がったが、今回の2019-nCoVに関して前回のコラムでも指摘した通り、SARSの時よりもはるかに強い感染力を見せており、終息時期が全く読めない。分かっているだけで世界経済に与える影響は1,000億ドル(10兆円)規模が見込まれている。仮に終息時期が6ヶ月先になったとすると、東京五輪開催はおろか、多くの日本企業の業績に影響を及ぼす。

Chinaリスクが別の形で顕在化し、世界経済に影響を及ぼすことが分かり、また米中関税戦争の影響も大きいため、Chinaは再び親ロシア路線にシフトするだろう。では他の国で親China路線に動いている途上国はどのように判断するだろうか?特にChinaマネーの投資が大きいアフリカ諸国はどのような判断をするだろうか?
Chinaはサプライヤーとしての働きと共に、消費地としての位置づけだが、外資の投資と輸出益を国内に還流させているChinaの経済モデルは、ここ数年、国内に猛烈な格差を生み出してきた。農民工と呼ばれる地方出身者で国内の生産工場の働き手を確保してきたが、それが格差を縮めるどころか益々の格差を生んでいる。国内のインフラ整備に投資したい中央政府の思惑とは裏腹に、China国内のインフラ関連企業は次々に国営化が進んでいる。これは半官系の企業とそれらのメインバンクの抱える不良債権を帳消しにする苦肉の策だが、それらの総額は見当もつかないほど増大していると言われている。一例が、China全土に張り巡らされた高速鉄道網で、有利子負債だけで100兆円近くと算出しているサイトもある。
仮に今後、一層アメリカの関税引き締めと知財に対しての引き締めが行われれば、China進出へのリスクが高まる。

これら二重三重のChinaリスクは、日本に限らずChinaから外資の引き上げを誘引する。
確かに、市場規模の大きなChinaに進出する意味は大きいが、一方、生産拠点としてのChinaはその役割を終えつつあるのではないだろうか?
1980年代から始まったChinaドリームは、呆気ない形で終焉を迎えつつあると言わざるを得ない。