今回、台風15号の被害が拡大した房総半島で、市原市内の山倉ダムの湖上に設置されていた太陽光発電システムが炎上し、その危険性が指摘されるようになりました。
太陽光発電パネルが日本で製造販売されるようになって、既に30年以上が経過しています。太陽光発電自体は液晶パネル製造メーカーの開発努力や、既に人工衛星に搭載されたり、国際宇宙ステーションに搭載されていることで実用化は証明されていましたし、一般住宅の屋根にも、25年以上前から使われていたりしました。
大きな注目を浴びたのは、東日本大震災後、原子力発電に対する懸念が増大したことで、時の民主党政権が自然エネルギーを活用した再生可能エネルギーの活用に国として注力し、また民間支援を行なっていくという政策を打ち出してからでした。具体的には、それまでも補助金制度というものはあったのですが、抽選であったことと、発電した電気の買取料金が低額であったため、一般住宅に取り付けるメリットというものが感じられず、普及に至らなかった原因と言われています。
菅直人政権時、元々反原発であった菅総理は、積極的に太陽光発電をはじめとした自然エネルギー、代替エネルギーの普及活動の一環として、一般住宅向け太陽光発電の普及を図ってきたわけです。具体的には、多額の補助金を出し、電力会社が一般住宅で発電した電気を買い取れる制度を拡充させ、買い取りに必要な差額についても補助を出すなど、積極的に推進してきました。
再生可能エネルギーについて、一般的には水力発電や風力発電が有名で、それ以外に地震大国である日本は地熱発電等の研究も進められてきましたが、火力発電や原子力発電の低コストに敵う筈もなく、唯一、山間部が多い日本では水害対策もあって水力発電が普及していましたが、それでも総発電量の8%程度でした。
旧民主党政策では、普及にあたっての公費投入により買取価格を高額に設定し、段階的に買取価格を下げていくことで、一般住宅の屋根を利用するというアイデアを現実のものにする意図があったことは間違いありません。ただ、そこには決定的に欠けていたものがありました。太陽光発電を設置するにあたってのモラルハザードに対するブレーキの掛け方です。産業が勃興するにあたっては、当たり前ですが、産業として成り立つような要素が必要になります。太陽光発電が普及するにあたって、懸念すべきはその点だったのですが、そこへの憂慮はほとんど考慮されなかったと言っていいでしょう。
太陽光発電は高価な買い物です。48円買取当時、一般住宅の屋根面積では4.0~5.0kw程度の発電量のものを設置するのが一般的でした。太陽光発電の価格設定は、1.0kwあたり60万円が相場でした。つまり、5.0kwの太陽光発電を設置すれば、300万円程度の出費になります。そこで、自治体と経済産業省はそれぞれに補助金を設定し、実質1.0kwあたり8万円ほどの減額で、260万円ほどで設置ができました。これは自治体によっても違うのですが、ここがポイントで、補助金を出しますから付けませんか?という謳い文句を行ったわけです。
これに便乗したのが、メーカーと設置業者とユーザーです。当初、1.0kwあたり48円の買取価格が設定され、逆算すると、単純計算でローンを組んで取り付けたとしても、20年間の使用で設置料金の回収をした上に更に電気代が安くなり、500万円ほどのプラスが見込めるというふれこみで普及させようとしたのです。それをまともに商談の場で話すと、それは商法上問題があるので、悪徳業者ほどそれくらいはプラスになるでしょうね、と匂わすわけです。
つまり、買取価格が高くても、メーカーも設置業者も設置したユーザーも損をしないという仕組みを作りました。本来、化石燃料を使った発電では、1.0kwあたりの発電コストは15円程度です。原子力発電なら、それが4〜5円と言われています。原子力の場合、再処理にかかる費用や発電所の廃棄の時にかかるコストはこの段階では考えないものとしています。ところが、太陽光発電の場合、国が補助を出すと言っても、化石燃料の3倍のコストがかかります。この時、各電力会社は、再エネ発電促進賦課金というものを考え出しました。つまり、電力会社が再生可能エネルギーによる発電した電気を、他の電気を買っている人から徴収しようと考えたわけです。
これらを総合して考えると、電気というインフラの背後にある仕組みによって誰が最終的に得をするのか?ははっきりします。
太陽光発電の普及によって、最終的には設置する人も設置業者もメーカーも電力会社も得をします。ここに目をつけたことが、太陽光バブルを生むきっかけとなりました。僅か10年ほどの間に、一般住宅の6.0%の住宅の屋根に太陽光発電が付き、メガソーラーを含めると、総発電量の6.5%が太陽光発電で賄われる時代が来たのです。
ところが、電力会社の買取価格が右肩下がりに下がるのと時を同じくして、太陽光バブルは終わりました。
太陽光発電が夢の発電であるかのように吹聴した業者は鳴りをひそめ、時代の波に乗った業者は、バブルの終わりと共に、廃業したり撤退したりして、一陣の風が吹いた後のようにいなくなってしまいました。
特に問題になっているのが、山間部等に設置されたメガソーラーと呼ばれる大規模設備です。産業用の太陽光発電が脚光をあびるようになって直ぐに、景観に対する配慮や、災害時の問題点が指摘されましたが、十分な法整備もなさぬまま、投資案件としてのメガソーラーが注目され普及していきました。未だに、土地の権利と電気の買取許可を得たものをセットにした売買が行われており、ブローカーと呼ばれる人々が横行して、その権利だけを転売するものも多くいます。
ここ数年、大規模に発生している豪雨災害を受け、メガソーラーの設置を許可した自治体には地元住民から反対の声が殺到しています。いくつかの県では、計画段階のメガソーラーの工事中止を求める訴訟も起きており、太陽光発電が持つ危うさが表面化しています。
先に取り上げた住宅向けも、また、メガソーラーのような投資案件としての太陽光発電も、その問題の本質は、取り付けた人が最終的には得をしますよ、という謳い文句です。
ここに、本来、生活のインフラであるところの電気に対する捉え方や扱い方の問題点があります。
生活に関わるインフラに対し、一般業者やインフラの受益者である国民を巻き込んだやり方をとった旧民主党の政策の間違いがあるのです。たしかに東日本大震災を受けて急場しのぎの方策を求められたのも事実ですが、同時にそれは法整備の不備を伴ったまま進んできた失政も指摘しておくべきでしょう。
これを付ければ儲かりますよ、という安易に消費者を刺激し、そこに便乗した業者やメーカーの姿勢も問題ですが、それを充分な考慮も無いままに推し進めた時の政権にこそ、一番の罪があると言わざるを得ないでしょう。