倉沢良弦『ニュースの裏側』

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テラロッサの風

“ねえ、ちょっと木下さん!こんなとこで、車、止まっちゃってどうすんの!”

 

“そ〜ですね〜…どうしたもんでしょうね〜…私、ちょっと考えます”

 

私より随分と年上の木下さんは、やっと手に入れたというボロボロのフォルクスワーゲン・ビートルで私を迎えに来てくれて、二人でサンパウロから400キロ以上離れた、アラサトゥーバという街に向かっていたところだった。

空冷式のエンジンなので、オーバーヒートではないだろうと思うのだが、とにかく、1970年代製と思われるオンボロビートルは、一切、木下さんの言うことを聞かなくなってしまった。

携帯電話は持っていたのだが、当時のブラジルは都市部以外で携帯電話は通じない。

 

“私、考えました。先ほど、ちょっとした街を通り過ぎましたよね?あそこなら修理屋がいると思うので、行って呼んできます”

 

“ちょ、ちょ、ちょっと…多分、10キロくらいありますよ。死んじゃいますよ!僕が行きます”

 

“あー、いやいや、倉沢さんだとうまく説明できないでしょうから、私、行ってきます”

 

言い終わるや否や、木下さんはスタスタと歩き始めた。

 

まだ、ブラジルに来てほんの数ヶ月。言葉もままならない私は、とある人のツテで木下さんを紹介してもらい、個人として彼に通訳兼運転手を頼んでいた。もっと給料出しますよ、俺、経費タップリありますから、と言っても、木下さんは当時のサンパウロ市内の最低賃金に少し上乗せした以上の金額を受け取ろうとはしなかった。

意外と頑固なところがあり、言い出したら聞かないというのも分かっていたので、500メートルほど先に見える高架の下の日陰で待つことにした。

 

“木下さ〜ん、俺、あそこにいますから〜!!”

 

既に随分先まで歩いていた木下さんは振り返り、ハ〜イと手を振って返事をしてまたスタスタ、歩き始めた。

 

 

今は、1月。南半球のブラジルは夏真っ盛り。

焼けるような日差しがさす。

ブラジルの景色で真っ先に思い浮かぶのは、アマゾンのジャングルかもしれないが、それは北部地域でのことだ。

乳牛や肉牛の生産が盛んな南部は、テラロッサという赤土に覆われている。

今から100年以上前に日本から渡ってきた移民団は、とてもではないが農作物の生産など難しいこの土質を見て、途方に暮れたのではないだろうか?

そんなことを考えながら、牧草程度しか生えない広大な大地が広がる見知らぬ土地で、オンボロワーゲンの修理工を待っていた。

少し高台に登ってみた。

樹木や草原が広がっている。

一陣の風が、乾いた大地の赤い土を巻き上げた。この赤土のせいで、この辺りの家々の壁は赤色に染まっている。

車もそうだ。乾燥した風の強い日にフリーウェイを走ると、すぐに車は真っ赤になってしまう。

私は、自分が何故、こんな広大な国の、大地を貫くフリーウェイの傍らで、オンボロワーゲンの修理工を待っているんだ?という、笑いたくなるような気持ちで、タバコに火を付け、木下さんが戻ってくるのを待っていた。

 

2時間くらいは経っただろうか…、修理工の車の助手席に乗った木下さんが戻ってきた。

 

“ちょうど、修理工の方が、お店にいらっしゃって、本当に私は助かりました。いやあ、ブラジル人というのは、そもそも日本人ほど勤勉ではありませんから、こういった事態が起きた場合、私どもは、本当に苦労するんです。その意味で、今日のように、速やかに修理工の方を見つけることができて、こうして修理を行えることは…”

 

懇切丁寧な木下さんの説明が終わりそうもない中、修理工のニーチャンが、“終わったよ”と言ってキーを回し、弱々しくも、先ほどの静寂が嘘のように、ワーゲンが息を吹き返した。

 

“Entao 100 dolares"

じゃ、100ドルね

 

"100 e alto. Torne un poco mais barato"

100は高いよ、ちょっと安くしてよ

 

"En tao posso evitar, entao 25 e bom"

しゃあねえな、じゃ25で

 

私は、木下さんとニーチャンのやりとりを横で聞きながら、100ドルがいきなり25ドルになるわけないやんけ…という本心を隠し、知らん顔をしていた。

修理工のニーチャンは、私が日本人であると見越して、最初から現地通貨ではなくドルの支払いを要求した。しかも、最初から安くすることを見越して、高い金額を言い値段交渉に乗って、結局、本当は10ドルの修理代のもので、25ドル稼ぐことに成功した。しかも、10ドル札を3枚出して、釣りはいらないよ、と私が言うのも分かっている。

こういう光景は、サンパウロに住んでいれば普通のことなので、木下さんを送ってくれたタクシー代と思えばいい。

復活したオンボロ木下号に乗り、私たちは250キロ先のアラサトゥーバを目指した。

エアコンなどという高尚なものなど装備していない木下ビートルは、窓を全開状態で走行しているので、アラサトゥーバに着いた時、吹き込む赤土で木下さんと私は、赤茶けたインディオのような顔に変わっていた。

 

 

木下さんは、離婚した父親と共に、12歳の時、ブラジルに渡ってきた。

木下さんの父親は、当初はオレンジ農園を経営することを夢見たようだが、就職した農園の苛烈な労働条件と日本では考えられないほどの低賃金により、やがて夢やぶれ酒に溺れ農園をクビになり、それからは木下少年が自分の力で生きていくしかなくなった。

木下少年は大学進学も諦め、日系人会のツテを頼って、日系人社会で細々と生きて行くこととなる。

日本語とポルトガル語の橋渡しになる仕事なら、何でもやりました、と木下さんは私に話してくれた。

これは厳密に言えば違法状態なのだが、木下さんは高齢にも関わらず、ブラジルと日本の二重国籍状態だった。

本来、20歳の時に国籍選択の意思表示をしなければいけないのだが、日本のパスポートを所持していることは、何かにつけて都合がいい。

父親が場末のキャバレーの女に入れあげ結婚をした時、ブラジルの国籍を選択したことにしておいて、日本国籍は放棄しないでおいた。

こういう人は、ブラジルに限らず南米には数多くいる。

 

木下さんを雇うことになった私は、結局、3年近くの歳月、木下さんと一緒に仕事をすることになった。

常時ブラジルにいるわけではないので、私がブラジルにいる期間は、彼を雇うことにして、木下さんと私は年齢の差こそあれ、戦友のような関係になっていった。

私が困った時には木下さんに助けられ、私は経済的に木下さんの生活を支えた。

木下さんは、安い家賃の高層アパートに住み、周囲の住人に対して心配りやちょっとした挨拶を交わす際の一言を忘れない、不器用だけれど真面目に生きている人だった。

一度も結婚したことがない木下さんは、将来、自分は日本に帰り、ブラジルでの経験を伝記にして、出版するのが夢だと語っていた。

私は、そんな木下さんの人柄に好感を持っていた。日本人が忘れてしまった日本人を見ている想いがしていた。

そんな木下さんは、同じ高層アパートに住む住人からも慕われていて、私が木下さんのアパートに行くたびに、木下さんを褒める言葉を何度も聞いた。

特に、木下さんの隣の部屋のベアトリスは、木下さんの人柄の良さを絶賛した。

 

”木下さんたら、私の家族の誕生日を全部覚えていて、誕生日が近づくと、一輪の花をくれるの“

 

”日本人は、どうして他人に対してあんなに優しくなれるの?“”

 

ベアトリスは、日本人が持つ感性は欧米人には無い、ということをしきりに私に話して聞かせた。

ベアトリスが木下さんを通じて日本人のことを知ってくれることを、本当に嬉しく思った。

 

一度、長期でブラジルを離れることになった私は、木下さんに半年分の給料を前払いした。

戻ってこれるのが、二ヶ月先になるのか、三ヶ月先になるのか分からない。十分ではないかもしれないが、彼一人なら、しばらく生活には困らないだろうと思われる金額だった。

 

“木下さん、しばらくブラジルに戻ってこれませんので、僕のいない間にこれ買っといてください。お願いしますね”

 

そのままだと、木下さんは絶対に受け取らないので、どうでもいいような買い物リストと一緒にお金を渡した。

 

“そうですか?大変なお仕事なんですね。あ、承りました。早速、リベルダーデ(日本人街)で買ってきましょう”

 

ブラジルはインフレが激しい。

米ドルで渡しておけば、彼が必要な時に両替して使うことができる。

 

木下さんは、グアリューロス国際空港まで、オンボロ木下号で送ってくれるという。

前のバンパーが取れかかった木下号は、空港に着くまでの間、ずっとガラガラと不気味な音を鳴らし続けていた。

搭乗時間までの間、することもないので、空港のカフェで木下さんと一緒に過ごした。二人して三年間の珍道中のあれこれを思い出しながら、笑い合った。

私は必ずブラジルに帰ってきて、この50年くらい前の日本人が使うような丁寧な話し方をする、気の良い木下さんと、再び仕事をするのだと信じて疑わなかった。

出国ゲートに入る前、何故だか分からないし、いつもそんなことはしないのだが、財布から100ドル札を出し、木下さんの上着のポケットに押し込んだ。

木下さんは、いつもなら丁重に断るのだが、何故か、その日だけは何も言わず黙って受け取った。

 

“じゃ、行ってきます”

 

“Vai com Deus voce e tenha  uma boa viagem”

"汝、神と共に行け、良い旅を…“

 

木下さんは、ブラジルの別れの言葉を言ってくれた。

ブラジルでは旅する人にさようならとは言わない。旅する人よ、どうか神の恵みのあらんことを、と祈り、送り出す。

 

”旅人よ。

我々の出会いは、人生の旅路の中で、神様の粋な計らいによってなされたものだ。

あなたはこれからも旅を続ける。

いつか時が来れば、我々は再び、神様の粋な計らいで再会を果たすだろう。

旅人よ、その時まで、私たちはあなたを待ち続け、あなたが無事に旅を続けられるよう祈り続けよう“

 

痩せて背の低い、くたびれた上着に、ちょっとくらいは磨いたら?と言いたくなるような曇った眼鏡の木下さんが、右手を上げて私が見えなくなるまで手を振ってくれた。

私が、早く帰れとシッシッと手を振って見せても、彼はニコニコしながら、いつまでも右手を振り続けた。

 

 

 

それから5年の月日が流れた。

私はマイアミからアルゼンチンに入る予定を無理やりねじ曲げて、ブラジルに一週間だけ立ち寄った。

木下さんの電話が繋がらない。

アパートに行ってみると、人のいる気配がない。

隣のベアトリスの部屋を訪ねてみた。ベアトリスは、数年で白髪が増えてしまったようだが、陽気な性格と綺麗な瞳はそのままだった。

私を見て抱きつき、頬にキスをして温かく迎え入れてくれた。目には涙さえ浮かんでいた。

 

ベアトリスは、彼のお墓に案内するわ、と言って支度を始めた。

サンパウロ市内にある無縁仏を埋葬する市営の墓地は、身寄りのない人、路上生活者、違法滞在者が亡くなった場合、行き場のない人に最後に居場所を提供する所だ。

 

決して広い墓地ではないため、埋葬されても数年後には掘り返され、その遺骨は処分される。

また、無縁仏扱いなので墓碑も何もない。

ベアトリスは、葬儀の日のことを正確に覚えていて、アパートの住人たちで、彼を送り出したと言った。

 

“じゃあ、最後は皆に見送られたんですね。一人じゃなかったんですね”

 

”そうね。彼は、癌だったわ。いつも、あなたのことを話してた。あなたが帰ってくるのを楽しみにしてたのよ“

 

彼が具合が悪くなってからは、ベアトリスが彼の身の回りの世話をし、アパートの住人が代わる代わる彼に食事を届けた。既にその時点で末期の癌だったのだろう。あっという間にベッドから出られなくなったそうだ。

木下さんのように身寄りが無い人の場合、最後の手段として、救急搬送を依頼し、そのままサンパウロ市郊外のホスピスに入り番号を付けられ最後を迎える。そして、亡骸は市の墓地に埋葬される。

 

私は、木下さんの名もなき墓碑に花を供え、木下さんの旅の無事を祈った。

 

“Vai com Deus voce e tenha  uma boa viagem”

"汝、神と共に行け、良い旅を…“

 

テラロッサ(赤土)の台地の上にある墓地に、風が吹いた。

木下さんは、今、どの辺りを旅しているのだろうか…。